会長からのラブレター


H30年早春号 No.35

子供の頃から剽軽だった私は三田という姓のためか学生時代のアダ名は「三太」。

70を過ぎた今でも昔の友と会うとそう呼ばれてお互い悪ガキだった時代に戻れる。
この2月在京の高校時代の友に連絡すると三人集まって宴を開いてくれた。
それも「花の銀座」で。

学生時代の思い出話に話が咲き近況を語り美味しく食べて笑いあって飲む。
生涯現役、生かされている間は働く。
傍を楽にするんだという私のホラ話をほほえみながら聞いてくれる。

仕上げはカラオケ、各々の個性に年輪を重ねた味のある歌が続く、終了。
後ろ髪を引かれる思いで再会を約して別れ、その時の写真を送ると御礼の電話とその日は体調がイマイチだった友から、「朋あり遠方より来る、亦楽しからずや」と始まる手紙が届いた。

「楽しく愉快な一夜だった。サンタの笑顔で元気になれた。」と書かれていて末尾に
「体に気をつけて元気にやってください。生きていればまた会えるからな。大雪にも気をつけて」
嬉しくて涙が出そうになった。

岩見沢東高時代の友と

岩見沢東高時代の友と

 

H29年師走号 No.34

明治16年11月29日鹿鳴館で日本で初めての舞踏会が開かれた。
そしてこの日をダンスの日として全国各地で愛好家たちがダンスを楽しむ。私もダンスファン「なにしろ中央区ダンスサークルの会長さんなのである。(エヘン)笑」

今年は11月26日豊平の北海きたえーるで500人ほどの人が集まった。
そして踊りを楽しむ中にプロダンサーのデモンストレーションやサークルの発表もある。私はこの日、車イスダンスの方達の応援に会場へ行った。

私も不思議なご縁だなと思うのだがきっかけは3ヶ月前友人が身体に障害のある人たちのダンスのお手伝いをしているのを知ったことから始まる。不自由な体であってもダンスを楽しみたい人達がいる。そしてそれをお手伝いする彼。彼に気高いものを感じた。

エライなと思った。よし私もお手伝いしようと。そして不思議なことはお客様から車イスの相談がありネットを調べているうちに札幌に車イスダンスサークル”ハーモニー”を知った事である。

ユーチューブで動画を見て感心させられた。すぐに連絡をし練習風景を見、お話を聞いて更に感動した。

お手伝いのメンバーに男性が1人もいないので腰が引けそうになったがお手伝いする事を決めた。ただダンスの日の発表が近づいていてそのフォーメーションが完成間近であったので学びとお手伝いは翌月からとなった。

そして本番。華やかなドレスを纏い美しい音楽で生き生きと踊る。見ている私は涙が出そうになる。広い会場の多くの人から大きな拍手が沸いた。

来年は私も車イスの方と華麗に踊るんだ!

指導される千葉先生

指導される千葉先生

 

H29年初秋号 No.33

八月、お盆も過ぎた朝、ケイタイが鳴る。
〝昨夜主人が亡くなりました。?
ダンスサークルでご一緒のAさん。

ご主人は私より十歳年長。サークル歴も大先輩で新人の私にはご夫婦仲良く踊る姿はとても美しく見えた。
役員としても長くお手伝いをされ、気配りと知識の豊富さで多くの会員から慕われていた。

4年前役員交替で不慣れな私にユーモラスに細かな指導も頂いた。
2年程前から体調を崩し休会。
Aさんはご主人の〝行っておいで?に励まされてサークルを続けていた。

時折病状が悪くなり、不安気な顔のAさんに私の仕事の内容を話し〝最後まで面倒を見るから?の冗談で気が軽くなったが〝何でも相談するからネ?と明かい顔になられた。

そんなある日〝歩くのが大変になった?と慌てて、ケアマネージャーと同行し介護申請の手続をしたり、ご主人が楽しみながらしていたという庭の樹々の剪定をした。
2Fの寝室から水廻りのある1Fへ、ベットを移したのは3週間前。
歩きづらそうではあったが昔のままの笑顔。
サークル時代の楽しかった思い出話もできた。次の日〝おかげで随分元気になったの?と。
車イスやドアや階段のリフォームは先の事と安心もした。

そしてこの突然の電話。
大急ぎで葬儀社の手配、遺体の引き取りも打合せた。
会場を〝退職してから随分経つから?と小さなホールを希望されたが、溢れる人達がお別れに来られた。
人の真価は棺を蓋いて定まると云われるがそれを実感できた。

生かされているこの時を大切にしなければと改めておもわされた。
〝一日一生?